| 東京・中目黒にある下半身ダイエット専門<中目黒ダイエット整体サロン>の関西初店舗として、今年2008年5月にオープンを致しました。
私は、その神戸サロンの整体師である押切恭江と申します。
みなさんが、多くのサロンの中から『どこにいくか?』を選ぶ時に、大事なことって、いろいろありますよね?
『成功例の多さ』だったり・・・『金額設定の明確さ』だったり・・・『場所の通いやすさ』だったり・・・・
その中でもとても気になるのが、『担当してくれる人がどんな人なのか?』・・・なのはないでしょうか?
ここの施術内容に関しては、このホームページをご覧いただくとご理解いただけるとは思いますが、担当者である『押切恭江』が、どのような人間かは、ご来店されて接してみるまでは分からないでしょうから、ここで自己紹介をさせて頂きます。
みなさんが少しでも不安な気持ちを解消できるように・・・担当する私がどのような人間で、どのようなきっかけで、この仕事に携わるようになったのか・・・そして、ご縁もなかった『関西』にお店をオープンすることになったのか・・・
少しお話していきたいと思います。
私は生真面目な父と、専業主婦の母の長女として、千葉で生まれました。
父は職業柄、転勤族ではありましたが、頻繁に引っ越しを余儀なくされるようなことはなかったので、小さい頃から社宅でたくさんの友達や、年齢の離れたお兄ちゃんと、毎日疲れ知らずに遊んでいたことを覚えています。
その頃、取り分け得意なのが『かけっこ』でした。
『かけっこ』なら男の子にも負けたことがないほどで、走ることがたまらなく好きで、とにかくじっとしていることが苦手な子供だった、と聞いています。
手に負えないことはなかったようですが、近所のガキ大将とケンカをしても悔しくて涙を我慢するほどの『負けず嫌い』
・・・これも今の性格の軸となる部分だったのかもしれません・・・。
そして、とうとう父が、“緑がたくさんある中での生活を・・・”と、マイホームを茨城に購入したのが小学校2年の夏。
この家が私の今の実家のある場所です。
今も両親と、弟がそこで生活をしています。
私の幼少時代から高校までの10年間の思い出は、すべて『スポーツ三昧の日々』。
私の人生の中で、スポーツから離れた生活は今でも経験をしたことがないほど、この練習時間にすべてを費やしてきたように思います。
この中で経験したこと、そして学んだことが私の軸であり、礎となっています。
逆に、『すべて犠牲にしてきた原因』となったのも『人生初の挫折感』を味わったのも『競技スポーツの中』でした。
小学生の時には、ある私立名門中学のスカウトの方が私の足の速さを聞きつけ、スポーツ推薦の話もあったそうです。
その当時、今は亡き恩師が『個人競技より団体競技でまだ学ぶべきことがある』という理由で断っていた話を後に知りました。
今となってはその当時の礼をお伝えてたくても、伝えられないのが残念でなりませんが、この恩師の『私を見抜いてくれた目』に感謝しています。
まだまだ荒削りで、自己中心的なプレイの目立つ私が、いかに団体競技の中で協調性をもってやっていけるか、チームをまとめ上げることが出来るかを見ていたようだと、後になって聞かされました。
小さい頃、足が速いからこそ好きだった『かけっこ』。
自分の足がどれだけ通用するのか・・・これを確かめたくて、念願だったスポーツコースのある私学の高校への入学。
ここからが私の『我慢』と『忍耐』の生活となるのです。
走ることが大好きでたまらなかったはずなのに、毎日8時からの朝練、夕方から夜までの本格練習。
お盆も、クリスマスも、お正月もなく、平日でも合宿の日々・・・。
いつしか、走ることが苦痛になり、『走りたい』から『走らされてる』に変わり始めていました・・・。
選手としての技量も、全国から集まってくるトップ選手を目の当たりにして、初めて『自分はそんなにすごくないんだ・・・』と身をもって感じました。
それでも、やっぱり辞められないのは、『走ることは好き』だから。
そして、途中で辞めることは絶対にしたくない・・・という、本来の気性である『負けず嫌いな性格』。
私が人生において、『なぜ・・だったんだろう???』と今でも不思議に思うことのひとつに、どのスポーツの中でも『キャプテン』を任されたということ。
そして、いつもいつもこの『キャプテン』という重責に、悩まされ苦しみ、時には『なんで私だけ??』と監督を恨んだことをありました。
自分のことで怒られ、殴られるならまだしも・・・『チームの為』『規律を守れない人の為』に・・・私が受けるのです。
でも、今こうして考えてみると、この3年間この監督について学んだことが、後の私の仕事の取り組み姿勢の『基盤』となっていたことに気づかされるのです。
また、この3年間があったからこそ『どんなことにも耐えられる』忍耐力が備わりました。
それでもこんな日もありました。
普段、辞めたいと口にしない私が、一度だけあまりに辛く耐えられない時に母に『陸上辞めたいよ』と、言ったことがあります。
その時の母の答えは『辞めちゃえば?』・・・でした。
あまりのアッサリさに、びっくりした私でしたが、母はこう続けました・・・
『あんたが行きたいって行った学校だからね。お父さんが一生懸命に働いて払った学校の入学金だからね。それだけは覚えておいてね・・・』
・・・なんてバカな事を言ってしまったんだろうと、後で後悔をしました。
父も母も小さい頃から、『頑張っている私』を応援してくれていたんだということを忘れていました。
『記録を出せないから』『荷が重すぎるから』こんなことで辞めたいと言ってしまう私ではなくて『どんな状況でも続けている私』を応援していてくれたことを・・・。
競技スポーツの過酷さを、3年間十分に身体に染み込ませ、充実していたか?と言えば『我慢と忍耐』に他ならない3年間だったように思います。
その後は2年間専門学校へ進み、高校3年間の反動のごとく、これまで全くと言っていいほど楽しめなかったすべての自由を謳歌したように思います。
『スポーツ少女』からの、あまりの変貌ぶりに、両親も少々心配したようですが、道を逸れるということはありませんでした。
そして、ここから社会人として就いた職業が『秘書』。
この秘書業という仕事が、私のその後の『基盤』となっていきます。
一見すると、今の仕事と無関係のように感じますが、結局のところ、高校3年間のキャプテンとして『監督のサポート』、秘書として『会長のサポート』、数々の秘書業における業務はすべて『誰かの役に立つためのサポート業務』に他ならないのです。
外資系自動車販売ディーラーで、秘書として数年働いたのち、受付兼任でセールスレディーとして勤務することになります。
この仕事は、本当にやりがいのある素晴らしい職種でした。
1台の車をお客様がご購入されるまで、セールスマンだけでなく、私たちサポート業務を担当するもののフォローあって、はじめて『御成約』という、形に出来るのです。
『共に喜びを分かち合う』こういった意味では、本当にコミュニケーション力を更に磨けた場として、今でも感謝の念でいっぱいです。
たくさんの方々のとの出会いや、時にはお叱りのクレーム、そしてその後の対応の迅速さで、さらにお客様との関係が密となる『接客業』。
私の人生初である職種が責任能力を必要とする『秘書』であったことは、小さい頃からの『キャプテン』としてチームをまとめる能力や、時に悪役になったとしても怯まない精神力・・・如何なく発揮出来た『場所』であったように思うのです。
そして、ちょうど10年前に私は一度結婚をし、5年前にまた『旧姓』に戻りました。
そして今、9歳になる男の子がいる生活を送っています。
結婚と同時に仕事は辞めていたのですが、やはり『何かが物足りない日々』を送っていました。
仕事に関しては『達成感』を感じて寿退社・・・
結婚後は専業主婦として生活を送ってみても・・・なんだか物足りない・・・。
出産後、育児が少々落ち着いてくると、更にその気持ちに拍車がかかり・・・
私は、元来仕事人間だったことに・・・離れてみて初めて気づいたのです。
そして、更に自分でも自覚したのが『欲張りである』ということ。
“妻”としての立場を手にいれ、“母”としての喜びを感じ、そして更には“ビジネス社会”との関わりを絶ちたくないという気持ちが、出産後さらに強まりました。
そして心の焦りと、現実の立場にココロが付いていけなくなり、初めて出た身体の不調が『メニエール症候群』簡単に言うと“めまいと吐き気”です。
症状は二日酔いのような状態で、平衡感覚が失われ、横に寝ても全く症状が変わらないツライものでした。
これをきっかけに、このメニエール症候群とは今も付き合っています・・・
極度のストレスなどを感じると、急に症状が出るのです。
薬などは特になく、治療法というのも特にないこの“症状”にかれこれ10年近く悩まされていますが、最近では年に数回と本当に落ち着いてきています。
私が結婚生活にピリオドをうつと覚悟を決めた当時、その後の自分の人生は“ひとり”ではない分、子供を路頭に迷うことだけは絶対にさせられないと、これまでの経験を生かし仕事復帰の準備は始めていたのです。
それが大学での研究室の秘書業務や、学会での司会業。
ただ仕事復帰を果たした私は、愕然としました。
秘書実務に多少のブランクはあっても、基本は変わらないであろう・・・この考えは、大学というのは一般社会とはだいぶかけ離れていたのです。
コミュニケーションの円滑化など必要なく、ロボットのように言われたことだけをこなす業務。
秘書として、上司の指示通りに遂行することは理解していましたが、あまりに冷たく感情が伝わらない、この職場で初めて『達成感』を感じずに、ただ毎日『こなす』だけの仕事を余儀なくされていることに違和感を感じ、任期満了と同時に辞めさせていただいたのです。
その後何度か、継続して勤務できないかとお声は掛けて頂いたのですが、私が一番大切とする『双方向のコミュニケーション』が取れない職場では、いくら生活がかかっているとは言え、気持ちの上で楽しく仕事ができないのであればと考え、次の職場を探したのです。
その間も、お声を掛けて頂いた仕事として、学会の司会進行業務などをこなし、着々とキャリアを積んでいったのです・・・。
キャリアを積み、仕事のオファーが増えて来ることによって、また更なる問題が発生してしまうのです。
小さい子供がいる私には、地方の仕事やましてや長期に渡る仕事には絶対的に協力者がいないと叶わない事でした。
そこでまた両親との摩擦が起きたのです。
『子供を置いてまで仕事が大事なのか』『子供が可哀想だ』と、父に罵られ、母には泣かれ・・・それでも気の張っていた私は、とにかく仕事をこなし生活の基盤を作る事が、解決の糸口になると考えていたのでした・・・。
その後、大きな転機がようやく訪れます。
離婚も成立し、子供とふたりの生活が始まった当初、やはり営業サポート的な業務を派遣として訪れていた勤務先で、ダイエットに励む女性がいたのです。
仕事を教えて頂くより先に、その『ダイエットサロン』の話に興味が沸き、すぐさま予約の仕方を教わり、メールで予約をしたいと連絡したのを覚えています。
すぐにでも伺いたかったので、すぐに予約を・・・と送ったら、そっけない返事で『その時間はいっぱいです』のみの返事。
改めていくつか候補時間枠をご連絡頂き、伺うことになったのが2日後でした。
そして、5年前の秋。
そこで私は始めてナカメ式ダイエットに出会うこととなるのです。
・・・と言っても、初回のカウンセリングで初対面の松田先生からは『完全なアスリート体系やな〜』『すごい筋肉やな〜』・・・なんて感じの悪い、人の話を聞かない先生でしょ・・・と、言うのが第一印象でした。
その後、タイミングが良かったというしかありません。
この中目黒ダイエット整体サロンが、『下半身痩せ』では、知る人ぞ知る『隠れ家的サロン』として、口コミで広まっていた為、松田先生おひとりで施術をしていたのではこれ以上受け入れ人数を増やすことは望めない・・・
そこで、ちょうどその時期に新しいスタッフを入れ、少し場所も大きなところを借りて仕事をしようという時期に差し掛かっていたのです。
これがまさに私の通い始めた時期と重なった時のタイミングだったのです。
『体育会系』『力が強い』『タフ』『愛嬌がある』『笑顔がいい』という理由で、松田先生にスカウトされたのです。
その当時、松田先生が、この仕事をやる気はないか?と声をかけた人数は何人かいたそうです。
もちろん、私も声を掛けて頂いてすぐには返事を出来ませんでした。
通勤に2時間・・・茨城から東京へ・・・
それでも、私はそう悩まなかったように記憶しています。
次の日あたりには『やらせてください』とお返事させて頂いたのでした。
結局、この誘いに一番早く結論を出したのが『私』だっということです。
決め手となったのは松田先生の言葉。
『絶対に悪いようにはしない』『来てくれるからには、絶対にサポートする』
今時、なんの根拠があって、こんな言葉を信じるのでしょう???と思いますが、数回しか経験していない(私は脚の力が強すぎで初ナカメダイエット断念なんです)ながら、効果を身をもって感じ取ることが出来ました。
そして何より、この松田先生の存在。
びっくりするぐらい、細かいことを言わないシンプル人だったのです。
これまでの秘書業では、とにかく『指示』と『報告』そして『お伺い』これが基本で生活を送っていたので、少なからず私の性格も『こうでなくては』『こうあるべき』極端に言えば『白か黒』こんなにも、自分の思考が狭くなっていたことに驚き、また悲しくもありました。
それを一掃してくださったのが、この松田先生のシンプル理論。
この考え方に何度救われたことでしょう・・・何度励まされたことでしょう・・・自分がいかに考えを難しく、ややこしくしているかを知るいい機会となりました。
『遠くからの通勤も分かってる。子供がいることも分かってる。それも含めてオッシーに仕事を任せたんだよ』そう言ってもらえた事を私は忘れません。
それから先の仕事スタートは、とにかく『見て体感して覚えろ』の連続です。
本来私は、理論的に話されるより、体が先に動く本能型なので、それも十分に理解しての教え方・・というより、松田先生は教えてはくれません。
自分で見つけろ・・・考えろ・・これが松田持論なのです。
それからの1年は怒涛の日々でした。
入って半年での、松田先生の手術による一か月不在時のトータル施術。
そして松田先生の復活後、後半のサイズダウン整体の連続施術・・・
今のように代わりのスタッフがいない中での日々が、私にはすべて実践勉強でした。
今のように『評価制』はありませんでしたが、私が比較対象されるのは『松田先生との施術比較』
松田先生への耳にも、私のまだまだ未熟な技術のクレームの声も届いていたようです。
見て・感じて覚えること、技術向上に必要なのは、『上手になるための答えはお客様自身の方を向いていれば、自ず分かる』ということだけでした。
まさにその通りの5年間でした。
毎日の同じことの繰り返しでも、その方の体質、その方の体調、その方のクセ・・・そのつど、確認しながら行っていくナカメ式ダイエットの施術の基盤となるものは『双方向のコミュニケーション』まさに私が一番大切としていることでした。
そしてナカメではこれを『二人三脚でのダイエット』とも言います。
この松田先生との師弟関係が、周りから羨むほどのものかと言うと・・・それほどいいものではないのです・・・
お客様の前でも容赦なく、怒鳴られ叱られる・・・
納得がいかなければ、こちらも声を荒げて反論する・・・
これが良いこととは決して言えませんが、すべては『施術に関すること』『お客様に関係のすること』であるから、本気で意見をぶつかり合わせ、後は、スッキリ何もなかったように接することが出来る・・・
それが、お客様に接する以前に、私が中目黒で松田先生と共にこの施術の素晴らしさをもっと多くの方に伝えたいと思った一番の理由です。
だから、もともとご縁のなかった『神戸』に来ても、気持ちのモチベーションも私自身も、何ら変わらずにこのサロンで、お客様をお迎えするのみ・・・なのです。
どんな状況になっても、どんな立場に置かれても、『なんとかなる』という気持ちだけで、ここまで走ってきたように思います。
ただ、がむしゃらに走ってきた・・・のでななく、その毎日毎日にはきちんと意味があって、たくさんの方々との出会いによって、私はみなさんと長年のコンプレッスである『下半身痩せを解消』をお約束できるのです。
『ナカメ式施術の出来る押切』を必要として頂ければ、その『願い』を成功に導けるように、ただただ全力でサポートしていきたいのです。
それが、私にとって大好きな仕事が出来る喜びですし、更に達成した時のみなさんの喜びに満ちた笑顔が、更なる私の原動力となるのです。
親子二人で遠く関西に生活の基盤を移し、今まで当然のように近くにいた一番の理解者である両親とも離れ、これまでどれだけ助けられていたかを身にしみて感じます。
それでも、子供と向き合える時間が増えた中で、仕事のできる喜び。
そして真剣に仕事に向き合っている私の姿を、息子に見せられることも、それを『不満』や『迷惑』と捉えることなく、いつも快くお越しくださるお客様のご理解あってのことなのです。
文中に私は『欲張りである』と、申しましたが、やはりその気持ちは今も変わっていません。
よく親の背中を見て子は育つといいますが・・・そうではないように思います。
私は働く背中を見せていても、子供も背を向けてしまっているのではないか・・・見えてないことは怖いことです。悲しいことです・・・。
それならお客様との接し方同様、『お互いに向き合って』というスタンスで歩み寄りたいと心から思うのです。
お客様との距離もこうして、歩み寄りながら『双方向のコミュニケーション』を上手にとりながら、皆さんの『長年のコンプレックス解消』にほんの少しお手伝いをさせて頂きたいのです。
元来の『おせっかい気質』をうまくコントロールしながら、皆さんと共に喜びを何倍にも膨らませることの出来る施術をこれからも行なっていく・・・
それが、私が下半身ダイエット専門<『神戸ダイエット整体サロン>を立ち上げた理由なのです。
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